こういう事書くと、すぐ「メンヘラ」とか言うんでしょう?

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静岡県富士市、富士山と共に産まれる
小学3年生の時、家族で旅行した際に中国に置き去りにされ、その後1人独学で中国語を習得。上海、桂林、北京に2年間1人で生活する。
小学五年生で日本に帰ってきた私は、様々な噂が飛び交っている日本の子供たちの堅苦しさに吐き気を感じ、転校初日早々全校生徒の前で
「私は友達なんていらない!!」と叫び、皆を驚かせる。
全校生徒ドン引きの中、1人「お前おもしれーな」と声をかけて、給食のカレーの列に入れてくれた男の子に恋をする。
その男の子もだいぶ変わってて、急に「じゃあ死んでくる!」と4階から飛び降りようとしたり、喘息持ちでよく倒れていたが、優しい人間だった。
中学に入学。美術部に入る。それと同時に美術予備校に通いだし、本格的に美術を学び始める。頭の中にある感情がうまく言葉に結びつかない多感な中学時代、絵というツールを使ってアウトプットする作業は ストレス解消にもなった。
絵で賞をもらうたび、嬉しそうに賞状を額に飾る母を見ると、私は絵しかないんだなと悟る。
初恋の男の子とは順調に仲良しだったが、初デートの時にいきなりチューを迫ってきたので、ぶん殴ってしまった。それっきりだ。


15歳。
県で唯一の美術高校に入学。皆美術が好きで入ってきた者達。やっと、平等にアートについて語り合える仲間が出来て嬉しかった。
美術の時間が毎日あり、作品が完成すると講評会をやる。皆の作品がズラーーっと並べられ、順位付されるのだ。その様子はとてもシビアで、自分の作品が人に評価されるがとても恐ろしく、わくわくした。
いつも一緒にいた親友と基本1位、2位で争っていて、彼女とは親友と同時にライバルという素晴らしい仲間で、彼女がいたから今まで絵から逃げずにやってこれた。
高校三年生。美術大学に入るため、毎日夜8時過ぎまで学校に居残り制作。その後家に帰ったら授業の勉強。朝5時には学校に行って作品の制作。美術大学は、絵を描いていれば入学できると思われがちだが、絵も勉強もどちらも出来ないと入れない。相当しんどかった。ハゲた。ここで逃げるのは簡単だけど、逃げたら逃げた自分を責めて死ぬんだろうなぁとわかっていたから、とにかく突っ走った。悟り世代だ〜


大学に入学。希望の美術大学に合格。
高校時代のノリが消えないような、集団で行動する女子達に、また吐き気を感じていたが、1人死んだような目で窓を見ている人間を見つけて、声をかけた。その子が初めてで、きっと一生の友達だと思う。彼女と出会い人生観がまるで変わる。だいぶ自分も自由な人間だと思っていたが、彼女はそれ以上だ。彼女は彼女だけの宇宙の中で漂っている。嫌いな人には「嫌い。消えて。」とハッキリ言える彼女の姿がとても眩しく見えた。その時に私は「良い人」を辞めた。


大学1、2年生の間は超絶ピリピリモードだった。美術大学は午前が通常の勉強、午後が絵を描く時間に分かれているが、平気で大学をサボる人たちを横目に 無遅刻無欠席で、授業はいちばん前で真剣にメモを取り、絵を描く時間になると最後まで居残って描き続けた。
20歳になった瞬間に、1人で立ち飲み屋に行きホッピーデビューをした。おじさん達に囲まれ1人飲むホッピーはまずかったけど、ここでお酒を覚え始める。


この頃から表の世界に現れ始めた私は、だいぶ変な人に好かれることに気づき、様々な仕事を始める。
仲良かった駅員に紹介されたロマンスカーアテンダントになったり、道で血だらけの人を助けた時にその人がやっていた喫茶店で働き始めたり、バーの店長の頼みで バンドのボーカルをやってみたり、1人でご飯を食べていた時に「あなたのオーラは人を幸せにするわ!!」と声をかけてきたおばあちゃんの家の歯医者で歯科助手をやってみたり……
他にも色々体験した。
人と交流し合ったエネルギーを、絵に注ぐことで作品にパワーが乗り移って昇華させる快感、気持ちよかった。
大学3年生。会いたかった人に会う。
「今だ!今がわたしのピークだ」と悟った私は(悟り世代)憧れていたアーティスト、ミュージシャン、芸術家、お笑い芸人、とにかく私の心を占領していた人たちに片っ端から会ってみた。東京という土地柄、かなり簡単にプライベートで会えてしまうことに少しショックだったし、自分のことをアーティストではなく「女」として接してくる彼らを軽蔑した。
私は、私の力で私の居場所を作ろうと決めた。
私だけの力で、そこは私が王さまで、私に関わってくれた全部の人を幸せにする世界。


その後、とにかく勉強をした。
自分の世界を作る為にどうしたらいいのか、本を狂ったように読み、資格の勉強、大型バイク免許の取得、心理学の勉強、とにかく勉強三昧だった。
ここで少し言葉を覚えた私は、絵以外にも自分という存在を伝えるツールがある事を知り、少し生きやすくなる。息が詰まっていた生活から少し脱出する。
中国語なんて一生使わないし、使えないと思っていたが、留学してきた中国の子を助けたことがきっかけで、中国語講師をやり始める。
中国から飛び込んできた駆け込み中国人たちに、日本語を教えるお仕事だ。
中国人は日本人が嫌いだと思い込んでいたが、そんな時代はもう古く今はお互いが歩み寄って行かなくてはいけないことを学ぶ。
自分の中国語が生かされていることに、学んだ事は無くならない、無くしてはいけないと気づき知り合いの紹介で中国語通訳もやり始める。日本人を中国語で観光案内したり、逆に中国人を日本で案内するお仕事だ。
タダで中国を満喫するのは得だったし、日本と中国の橋渡しに少しでもなれたら、と今でも続けている。


大学四年生→現在。
4月。大好きだったおじいちゃんの死を通して、人間に対してどこか寂しい気持ちが抜けきらず上の空の状態が続いた。人の何倍もお葬式に出ている私は、大事な人は私を残して死んでいくのだから、しゃがんだら立ち直らなきゃ行けないことを苦しいほど理解しようとした。
いつもいつも、大事だと気づいた頃にはその人達は私と同じ土俵にはいてくれなくて、大事だという思いは私の心の中だけに留まって吐き出せないまま蓄積している。涙になってすべて流れてしまえばいいのに、泣かせてもくれない。
誰かが私を好きになってくれても、好きだという気持ちに責任を取ることが怖くて怖くて、ありがとうでしか応えられない。人間は好きだが、「大好き」にはならないように、無意識に壁を作るようになる。
私はどこにいるんだろう。どこにいていいんだろう。自分のことはすきだけど、女である自分は好きになれない。本当は好きになってくれた人全員に好きを返したいけど、残念ながら体も心もひとつしかないから、返しきれなくて誰かを削ぎ落とすことになるなら
そんな残酷なことするくらいだったら、誰も選ばない。でも、誰かが私を救い出してくれてどこか知らない街へ行けたらな、なんて少しの希望と絶望を抱えながら、今日も現実と殴り合っている。

 

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