これを読むと私の事を嫌いになる人と好きになる人に別れる

 「私の旅」

 

3月31日。

 母と2人で台湾旅行に行ってきた。

母と旅をするのは4年ぶりだった。

そもそも私は、台湾に行きたくなかった。中国には嫌な思い出ばかりで、「思い出なんて自分で更新するものだよ⭐︎」とポジティブシンキングの人は言うかもしれないけれど、私は散歩に行きたくない犬が無理やり首輪をつけられて連れてかれる気分だった。

 

 というのも、私は小学3年生の時、家族で中国に旅行に行っている。そこは桂林というところで中国の中でも空気が澄んでいて近くには綺麗な湖がある田舎だった。

 

そんな場所にある公立の小学校の敷地内にあるアパートに泊まった。母が言うには知り合いの先生が住んでいるらしい。家族で泊まったその日を最後に、私は2年間、1人でそこで暮らすことになる。

置いて行かれたのだ。

 

 「2年間頑張ってね」という母の置き手紙を最後に、私は1人知らない土地で2年過ごす事になる。

言葉もわからない、知り合いもいない。ましてや中学人は日本人に良いイメージを持っていない。日本人が中国人のことを悪く言う様に、中国人だって日本人のことを好いてはいない。みんながみんなそうだとは限らないが、私の住んでいた地域ではそうだった。

 

 国語の時間は特に苦痛だった。教科書にはひたすら日中戦争のことがかかれていたからだ。最初の戦いで日本に敗北した中国は、無理やり日本語を覚えさせられる。それがどんなに自国愛を侮辱する行為だったか、どんなに悔しい思いだったか、そんなことが丁寧に書かれている。

 テレビもずっと、日中戦争のドラマの再放送が繰り返し流れている。その中で出てくる日本人に向けられた言葉「日本鬼子(リーベングイズ)」=日本人の鬼、最低

この言葉は中国人で知らない人はいないくらい認知されている。他にもそのドラマでは「バカやろう、このやろう」というセリフが日本人兵隊を演じているであろう中国人が繰り返し言っている。だから、中国人に「日本語で知っている言葉はありますか?」と聞いたらすぐに出てくるのはこの言葉だと思う。私たちが知っている中国の言葉は「謝謝(シェイシェイ)ありがとう」なのに、中国人が知っている日本の言葉は人を傷つける言葉。日本人は中国人を傷つけてしまったのだからしょうがないのかもしれないけれど、やはり悲しい。

 

それでも私は運良く周りのひとに恵まれて、毎日学校行った。友達もたくさんできたし、ご飯だって美味しいものを食べて、人並みに恋もした。

休みの日には迎えに来てくれて船に乗ってお友達の家まで遊びにも行った。

中国語だって標準語なら聞き取れる様になって、

相変わらず日本人だと思って高く売りつけてくる服屋のおばさんに「安くしてくれないと他の店で買っちゃうんだから!」と値切れる様にもなった。

 

 そんな中で2年たったある日、母が迎えにきた。空港で久々に会った母は痩せていた。泣きながら抱きついてきた母を見て、「ああ、私は嫌われて置いてきたんじゃないんだな」と安心した。

それと一緒に、父が亡くなったことも告げられる。

 

父はC型肝炎という病気を患っていた。当時は治りにくい病気で、助かる術がなかった。母は夜にお仕事をして、家事もこなし父の看病をするというハードスケジュールをこなしていた。

 一番やっかいだったのは私だ。やっと生まれた女の子。両親とって可愛くないわけがない。散々甘やかされたわたしは、もう自分のことをお姫様だと信じきるワガママ娘に成長してしまった

 わたしの将来の危機を感じた母は「かわいい子には旅をさせよ」の言葉通り、母がいなくなった時に頼るひとがいなくても生きていけるよう、小学3年生の私に旅をさせた。

 

小学3年生の女の子を1人で中国に行かせるなんてどうかしてる、という人もいるが、今ではこれをネタに人を笑わせることもできるようになったので、母には感謝している。

この時の辛さを思い出せば、なんだって乗り越えることができる気がするから。

 

話はだいぶ逸れてしまった。そうだそうだ、今回のテーマである旅。

台湾旅行は、なんだかんだ楽しかった。母は飛行機で隣に座った知らない人に「それどこで買ったの?売ってよ!」と話しかけたり、建設中の高層マンションを見て大層気に入り「私、老後はここに住む」といってその場でマンションを購入する以外は、楽しかった。(母は常にぶっ飛んでいる)

そして、小学3年生のあの時好きだった親友の男の子とも会えたのがすごく嬉しかった。スマートフォンのアプリ「LINE」を使ってやりとりをしていたのだが、実際に会ってみると当時とは比べものにならないくらいたくましくなっていて感動した。

なによりその男の子も、美術の学校で絵を学んでいることが本当に嬉しかった。将来は舞台監督になるらしい。当時暇な時はひたすら一緒に絵を描いたり、舞台を見に行っていたので、それが今につながっているのだと思うととても嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

今でも日本人と中国人の間には大きな壁がある。でも、絵だったらどうだろう。

私は、この世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔、そして絵芸術だと思っている。

 

人を動かすものとは、国籍や言葉ではなく、自ずと出てしまう才能に触れた時だ。

私も芸術を通して、脳みそ全部見せ合って、意思疎通できるようにこれからも旅をたくさんしていろんな人と出会って、たくさんの人を好きになりたい。